自然は偉大なチャーチスト

自然と人間が為す相場との関係を考察するブログです。

「100年前の日本」が今と驚くほど似ている事情(東洋経済)

 「人類は、進化しているようで、実はそうではない。歴史は繰り返されているだけ・・・」

 

 今から100年前の1920年は、日本は大正9年

大正時代は、幕末維新の「混乱期」、明治の「発展期」を過ごした「安定期」。

その後、昭和は、太平洋戦争の「混乱期」と戦後復興高度成長が「発展期」、平成が「安定期」。

 

1920年代は、第1次世界大戦の特需から米国経済が空前の大繁栄を遂げ、生活様式は“大量生産・大量消費”に変化し、自家用車やラジオ、洗濯機、冷蔵庫等の家電製品が普及し、「黄金の20年代」と呼ばれた。世界の覇権は、英国からまだ新興勢力であった米国に遷った。しかし、世界経済のピークは訪れ、1929年には、米国株式市場が大暴落(「暗黒の木曜日」)し、世界恐慌に見舞われた。

 

 米国では、経済発展に伴い、ベーブルースによる野球人気やチャップリンの映画、黒人音楽のジャズなどのアメリカ的な文化が開花した。一方、1919年に制定された禁酒法によってアル・カポネなどのギャングが夜の帝王として街を支配するようになった。

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 日本も同様、1919年までは、第一次世界大戦の特需景気で、繊維・造船・製鉄などの製造業や、海運業が発展し、アジア中心に輸出が大幅に伸びた。この好景気を背景に東京や大阪などの大都市で百貨店が営業をはじめ、ラジオ放送や雑誌の創刊が行われた。

 

 しかし、1920年代に入ると大恐慌を経験した。1923年は関東大震災があり震災恐慌、1927年には金融恐慌、1929年には世界恐慌と経済的な苦境がつづいた。都市の中間層の増大は大正デモクラシーといわれる政治上の主張としてあらわれ、一般大衆の選挙権を求める運動 (普通選挙法)がさかんとなった。本格的な政党政治がおこなわれ、一方では社会主義思想が広まって労働争議や小作争議が相次いだ。

 

 1920年は、ちょうど戦後の好景気の真っただ中。幕末維新の「混乱期」、明治の「発展期」をあとの大正の「安定期」の中の安定期。

 安定期を享受する世代のふがいなさなどがよく指摘される。

 

メリハリのない仕事ぶり、教師や役人の長時間労働、政治家の質低下、教師の体罰、新聞への批判、なりすまし詐欺、若者の読書離れ──。最近よく言われるこれらの社会問題は、大正期にも指摘されていた。

 

例えば、1915(大正4)年に東京の小学校で教員が3年生の児童に体罰を振るい負傷させました。親が告訴し裁判で争われましたが、並行して、現場の教師、元文部官僚から歌人与謝野晶子まで、さまざまな人が体罰肯定、否定の意見を述べるといった具合。

 

世の中が安定すると、必ずといっていいほど、庶民の堕落、退廃を指摘する声が大きくなる。元官僚の澤柳政太郎は、現代の青年には遠大なる志が乏しく、大なる野心がない、依頼心のみ強い、こんな意気地のないことでは国家の前途も心細いと『野心論』に書いています。元外交官、河上謹一も、新卒者の一括採用に当たり、「今時代の学生」は「大会社とか大銀行とかを選ぶ傾向があって、いずれも大樹の下は安全だという思念に付纏わられている」と論じています。

 

 働き方に関する議論が多かった。今の働き方改革でも問題になった、メリハリのない仕事ぶりも以前から。レジオン・ドヌール勲章を受章した仏文学者の飯田旗郎はそうした仕事ぶりを「虚飾虚礼」とし、「もっとも上役の人達も、追従虚飾の勉強を喜ぶものが無いでもない」と、それを助長する上司の意識にも言及している。

 

 日本人は勤勉と自ら言いますが、上司から勤勉に見えるように働いていたというのが実際。勤勉に見えるには、長時間会社にいなくてはならない。ダラダラやっているのに人に会えば「どうも忙しくて困る」。効率の悪い働き方をしているという自覚に乏しい。

 

 多くの教育関係者が、小学校の教員は学校では休息の時間がなく、授業後も授業案、統計表などの作成で帰宅は夜になると訴えているのには驚きました。こうした声を受け、政財界からも「これでは駄目だ」という意見があったのに変わらなかった。

 

 工場と違って労働時間と成果の関係が見えにくいうえ、「聖職」の語に象徴されるように、先生自身も、そういう仕事だからしょうがないと思っていたようです。ただ、教師の人事にも影響力を持つ、視学という行政官の目を気にして、日没前に帰宅できないという記述もありました。

 

 新しい技術やツールを産業界が採用するように、犯罪を仕事にする人も取り入れています。新聞広告に「無担保信用貸し」と出し、集まった人から身元調査費をせしめ、調査もせずに「調査の結果貸せない」とはがきを送り付ける。本人の友人を名乗り、「代わりに金を受け取りに来た」と、本人の家族からだまし取る「なりすまし詐欺」は現代の“オレオレ詐欺”の原型。このやり方では本人になりすませないが、電報と電報為替の登場で可能になった。電報為替で送金せよとの電報を田舎の家族に打つ。振り込め詐欺と同じ。

 

 改善されたのは、「物品を粗雑に扱う」くらいですね。

 

 確かに制度面での改善はあるのですが、その新制度の下でも人々は前と同じように考え、行動したりする。例えば、参政権など女性の権利は拡大しましたが、それでも医大の入試で女子受験生の一律減点が続いていた。

 

 政治で制度を変えることはできても、人の意識までは変えられない。変えられるとすれば教育で、100年前も同じような議論がありました。しかし、「道徳教育を強化してきたのにまだモラルの低い人間が多い」という指摘があります。

 

 産業面でも、技術や機械の進歩に働く人間の意識が追いつかないことを嘆く声がありました。じゃあどうするのかというと、教育しかない。今後も、時間はかかっても改善されていくと思いたいところだ。