自然は偉大なチャーチスト

自然と人間が為す相場との関係を考察するブログです。

スペイン風邪の第2波の死亡率

 

 100年前のインフルエンザの世界的大流行「スペイン風邪」は、日本国内で大小3度の流行(1918~21年)を繰り返した。第2波は死亡率が第1波に比べて4倍超にはねあがった。100年前の経験に、新型コロナウイルスの「第2波」に対する備えのヒントはあるだろうか。

 

国内の第1波は、18年秋に本格化した。翌19年春までに感染者約2100万人、死者は25万人にのぼった(内務省衛生局編「流行性感冒」から)。感染者は4月もなお11万人を超した。だが7月は約1600人まで減っていた。

 

しかし11月6日付の東京朝日新聞には<恐ろしい流行感冒襲来の徴>という見出しの記事が載った。

「今春ようやく終息し市民もやっと安堵の胸をなで下ろした間もなく」

東京市を襲う兆候あり」

「流行性感冒」によると、第2波は10月下旬ごろから本格化し、11月には全国に広がった。死者は20年1月に5万5千人、2月も3万8千人にのぼった。第1波で流行が穏やかだった地域ほど「激しき流行を来し」たとの記述もある。免疫の有無が影響したようだ。

 

「流行性感冒」は第2波を「遥に猛烈」と記した。感染者こそ約240万人と第1波の10分の1だが、死者は約12万7千人。感染者に対する死者の割合は第1波の約4.3倍となる5.29%にはねあがった。ウイルスが変異したとの見方もあるが、理由は不明だ。

 

歌人与謝野晶子は、第1波の際に子どもの一人が小学校で感染した後、「家内全体が順々に傳染」したと書き残す。第2波に際した新聞への寄稿では「死が私たちを包囲して居ます」と社会を覆う恐怖を代弁し、「子供達の或(ある)者には学校を休ませる等、出来るだけの方法を試みて居ます」とつづっている(横浜貿易新報=神奈川新聞の前身、20年1月25日付)。

 

 期待が寄せられたのはワクチンの開発だった。当時は病原がウイルスと分かっておらず、いくつかの菌が病原の候補に浮上した。結局、開発されたワクチンは、ウイルスには効かない菌由来だった。第2波に際して政府は児童や貧困層などに無料接種を進め、500万人以上が接種を受けたが、合併症を抑える程度しか効果はなかったとみられる。

 

治療法も手探りで、回復した患者の血清が用いられたほか、栃木県矢板町(現矢板市)の開業医はジフテリアの血清で治療を試みた記録を残している。

 

一方、「3密」を警戒する現代のように、当時もマスクの着用やうがい、手洗いが強く奨励された。また劇場や活動写真館、電車内、理髪店や芸妓(げいぎ)、娼妓(しょうぎ)といった接客業でのマスク着用が求められた。ただ営業休止や閉鎖が徹底されることはなかったようだ。与謝野晶子は、「なぜ逸(いち)早く、大呉服店、学校、興行物、大工場、大展覧会等の一時的休業を命じなかつたのでせうか」(横浜貿易新報、18年11月10日付)と政府を批判している。

 

スペイン風邪は、20年8月~21年7月の小規模な第3波を経て収束した。国民の4割以上が感染して「集団免疫」を得たことが、収束理由とみられている。「スペイン風邪をきっかけに、マスクやうがいが日本の衛生習慣として根づくようになった」とインフルエンザに詳しい、けいゆう病院(横浜市)の菅谷憲夫医師は言う。

 

 新型コロナでも「再拡大の恐れは十分にある」と菅谷医師は話す。

 

欧米と比較して日本の対策が成功したとの見方もあるが、菅谷医師は「欧米ほど流行が激しくなかったのは、日本だけでなくアジア各国も同様だ」と否定的だ。「感染によって免疫を獲得した人が日本では少ないとすれば、第2波は欧米のような激しい流行になる恐れもある」とみる。

 

菅谷医師は、PCR検査など医療体制の整備や出入国管理の強化が重要だと説く。経済に打撃を与えるような極端な対策は避けるべきだとしつつ、「マスク着用やソーシャルディスタンスの確保といった個々の取り組みの継続は欠かせない」と強調する。

 

国立病院機構仙台医療センターの西村秀一・ウイルスセンター長は、スペイン風邪当時の米国の対応に着目する。「流行性感冒」にも、医療だけでなく、教会などを通じた困窮者への支援や、親を亡くした子どもの救済など、経済や福祉などにも目配りした対策が取られたとの記録が残る。

 

今冬はインフルエンザの流行も懸念される。新型コロナの再燃が重なれば、医療や社会・経済の混乱は、今春の比ではないと、西村氏は懸念する。「反省点をすべてあげて、第2波への備えをすぐ始めるべきだ」と指摘し、こう強調する。「100年前の米国にできたことなら、今の我々にもできるはずだ」