自然は偉大なチャーチスト

自然と人間が為す相場との関係を考察するブログです。

ビッドワールド 「Fall; or, Dodge in Hell」

 

SF作家のニール・スティーヴンスンは、880ページの『Fall; or, Dodge in Hell』で、いまや自身の代名詞と呼べるまでになった多数のテーマを巧みに操っている。歴史、未来、そして科学だ。

 

知識はいかにして力を生み出し、その力はいかにして永久に続くものになるのか。数世紀もの歳月をかけてブレイクスルーを重ねながら、あり得ないように思えるテクノロジーはいかに現実のものになるのだろうか?

 

デジタル化が進んだ社会や死後の世界にまつわる創作は、スティーヴンスン作品ではお馴染みのテーマである。ところがこの作品では、それが切迫したテーマを表現するうえで珍しくマイナスに作用していると言える。

 

ティーヴンスンはメタヴァースの誕生を30年近くも前に予見していた。この作品の冒頭で彼は、ひとつの文化が二分された世界を見せた。そこに存在する溝は、拡張現実(AR)の効果でもたらされたフィルターバブルによって、より深くなっている。これは確実に差し迫っている未来だと言えるが、結局のところ彼は詳しく掘り下げていない。

 

物語の冒頭で描かれるのは、作品のタイトルにもなっているリチャード・“ドッジ”・フォースラストの死だ。ドッジはゲーム制作会社を立ち上げて財をなした。そんな彼が医療ミスによって脳死状態に陥ったあと、「冷凍保存してほしい」と記された遺書を家族が見つける。ここから物語は展開していく。

 

 将来性のある脳のスキャン技術によって、ドッジのコネクトーム(脳の神経回路全体)はデジタルデータ化されて保存される。コネクトームはぎこちないながらも眠りを必要としないデジタル世界に馴染んでいき、やがて自らの周囲に「ひとつの世界」を形成していく。現実世界で「ビットワールド」と呼ばれる世界の誕生である。

 

 精神をデジタル世界にアップロードする描写はSFの世界では好んで用いられるが、たいていはすでに実装されているイノヴェイションとして位置づけられている。一方でスティーヴンスンは、こうしたテクノロジーを開花の途上にあるイノヴェイションとして描いた。

 

それは危うい足どりながらも幼年期から思春期へと成長していくような様相を見せる。同時にビットワールドとその“住人”はストーリー全体を通してゆっくりと力をつけ、確固たる存在になっていく。

 

 やがて経済的にゆとりのある人たちにとっては、ビットワールドこそが死後の安息地になる。それに伴う“代償”は安くない。ビットワールドを動かすには、量子コンピューターを飛躍的に稼働させることが必要になる。こうして現実世界は徐々に、ビットワールドの動力源と化していく。

 

 まるで物語そのものがビットワールドに飲み込まれていくようだ。ビットワールドが描かれる場面がだんだん増えていき、そこに生きる人たちは自らの魂を“前衛の典型”とも言えるようなあり様に変えていく。この物語は中盤で語り手が入るまで、進化するビットワールドにおける出来事を描き続けるファンタジー小説の様相を呈していると言っていい。

 

 残り3分の1ほどで、スティーヴンスンは何かしら試みたようだ。それはもしかすると、ジャンルに境界線を引くことに対する否定の表れかもしれない。つまり、SFとファンタジーには結局のところそれほど違いはないのだと、純血主義を語る人たちに示そうとしたのではないだろうか。あるいは、自らの創造神話に回帰するという人類の宿命を描き出すことで、物語のもつ力を讃えているのかもしれない。

 

 ビットワールドはその外の世界に対して影響力をほとんどもたない。しかし、ビットワールドで過ごす時間が増えるほど、外の世界はどんどん意味をもたなくなる。現実世界へ戻る時間が短くなっていくとともに物語は勢いを失い始め、ついには空中分解してしまう。

 

 

何より残念なのは、本来ならもっと描かれるべき警鐘が鳴らされないまま物語が幕を閉じてしまう点だ。この作品で、ソーシャルインターネットがもたらした無秩序という問題にスティーブンソンは取り組んでいる。

 

 ドッジが死ぬ場面から幕を開けるこの作品では、「あるデマ」が物語に勢いをもたせる触媒の作用を担っている。核爆発によってユタ州のモアブという小さな町が吹き飛んだ、と世界中が鵜呑みにしてしまうのだ。こうした大規模な情報工作は、悪意をもつ人たちの手によって恐ろしいほど簡単に実行されてしまった。

 

これに比べれば、先の大統領選におけるフェイクニュース騒動などたわいなく思える。この場面の大半をスティーヴンスンは16年以前に書き上げたが、「思い描く未来はいまよりずっと先にあることがわかった」ために全体的にスケールダウンを余儀なくされたと語っている。

 

時間が10年ほど先へ飛んだところで、読者はあることに気づくだろう。モアブは米国の「フェイスブック化」(スティーヴンスンはそう表現している)の火種として描かれているのだ。そこでは現代に生きるわたしたちが想像する通りにARメガネが広く普及しており、人々の視界にはニュースが直接表示される。

 

しかし、人間の編集者を雇うか、知人と一緒に金を貯めてまともなAIフィルターによるニュース配信サーヴィスに登録しない限り、ある登場人物が言うところの「個人に最適化されていると謳うまやかしのストリーミングサーヴィス」漬けの日々を送ることになる。そこでは配信情報がアルゴリズムで決定され、脈拍やまばたきの速さといった身体的な情報と同期している。

 

こうした世界におけるアテンション・エコノミーでは、当然ながら情報の真偽を確かめるといった発想はないがしろにされてきた。フォースラスト一家の自宅に近いアイオワでは、「REMEMBER MOAB(モアブを忘れるな)」と書かれたバンパーステッカーが、南部連合の旗を描いたステッカーの隣に貼られている。

 

 こうした活動の中心地は「アメリスタン」とこの作品で表現されている。そこでは、レヴィ記を重んじるキリスト教の一派がイエスを「ベータ」と呼んだり、十字架の責め苦を「大衆をおとなしくさせておこうと目論むエリートによる陰謀」とみなしたりしている。一派のメンバーがKKKの活動を非難しながら十字架を燃やしたり、合成繊維でできた衣服を身に着けた人が侵入してきたら誰であろうとその人に発砲したりする理由は、ここから読みとれるだろう。

 

ティーヴンスンはそのあとの世界に読者を80ページほどかけて導いている。『スノウ・クラッシュ』では、人類が仮想現実(VR)をどのように活用するかという未来予想図が描かれていた

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しかしこの作品では、VRはほとんど影もかたちも見せず、代わりにデータをどこにいても瞬時に上書きできる世界が描かれている。ここで出てくるデータとは、大多数の人たちにとって「おびただしい量のポルノグラフィーやプロパガンダ、そして死の恐ろしさ」を意味する。

 

不気味で不安をあおるような空想の世界が描かれているが、同時にすべて想像のつくものでもあるだろう。もし金以外で解決できる方法があるなら、ページ数を割いてそれを掘り下げてほしいところだ。しかし、この作品では何の解決策も示されない。

 

Fallはスティーヴンスンのいつもの流儀に則った作品だ。たくさんのコンセプトを詰め込むことによって、作品が描き出す近未来の社会にリアルさをもたせている。少なくとも、ビットワールドの外にある世界についてはそうだと言っていい。ロボット工学が進展したおかげで、年老いても健康でいられるし、楽に移動できて寿命はとてつもなく延びている。

 

 顔認証のアルゴリズム対策として、特定のパターンで光を放つAR機能を備えたウェアラブルデヴァイスや、オンライン活動(オンラインという概念はあまりに浸透していて時代遅れに聞こえるが)において匿名性を貫きながらも検証可能なブロックチェーン技術──。また「VEIL」、「PURDAH」、「ALISS」といった略語が登場するのは、作品をわかりやすくしようという著者の試みだ。

 

ラニアーは「VRの父」として知られるが、いまはARの分野に活動の場を移している。歯に衣着せぬソーシャルメディアの批評家となった彼は、スティーヴンスンのテクノロジー悲観論を中和してくれるという観点から、この作品のガイド役として適任。

 

 また、ラニアーはFallに築かれたビットワールドの精神を体現したような存在でもある。彼がこの物語に登場したら、間違いなくビットワールドのそもそもの思想や概念をかたちづくる存在になる。彼の名声は未来永劫ビットワールドで語り継がれるはずだ。

 

 しかし、ビットワールドの背後にある現実世界の腐敗は止まらない。人を脳死同然にしてしまう、バイアスに満ちたニュース配信はいまなお続いているのかもしれない。