自然は偉大なチャーチスト

自然と人間が為す相場との関係を考察するブログです。

「こころの相続」

 「相続が争族に」という事例もこのところよく聞きます。

 

以前は、「相続」なんて一握りの富裕層のものでしたが、「お金、お金」の時代となり、少しでも親のお金を当てにして争いが起こる。年老いた親としても、“争族”が気になって安易に死ねない。

 

「相続は、有形のものだけではない。こころの相続こそ、大切だ」

と講演などでお話になるのは、五木寛之さん。

 

最近の書に、「こころの相続」がある。

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「80代を迎えた頃から、自分が両親から相続したものについて考えるようになりました。

僕の父は戦前に朝鮮に渡り、終戦後日本に戻った引き揚げ者でしたから、当然家や土地などの資産は一切なく、物質的な相続は何ひとつありませんでした。むしろ、借金を背負わずに済んでよかったと思っていたくらいです(笑)。ところがこの年になってから、実は両親から引き継いできたものを次々と思い出すようになったのです。例えば話し方や挨拶の仕方、本の扱い方、健康管理の仕方など、実に多くのことを両親から相続してきたことに改めて気付きました。

母は40代で、父は50代でこの世を去りました。もっと長生きしてくれていたら、彼らがどんな青春時代を過ごし、どんな本を読み、どんな夢を持っていたかなど、両親をもっと知ることができたかもしれません。すごく残念に思います。」

 

「こころの相続」は社会にとっても重要です。一度途切れてしまったら復活できない文化や伝承、戦争や災害の真実などをいかに次世代につないでいくべきかについて、私たちの社会はもっと真剣に取り組むべきでしょう。

 

日本では、最近、相次いでいる自然災害が激しくなり、痛ましい被害状況を見るたびに思い出すことがあります。今から60年ほど前に長野県を襲った天竜川の氾濫による大災害を取材した時のことです。ある被災者の方に話を聞くと、「『谷筋には家を建てるな』とお年寄りに言われていたのに……」とひどく悔やんでいました。

 

氾濫の危険があるので天竜川のすぐ近くには住むな、という言い伝えが古くからあったのにもかかわらず、多くの人が川沿いに家を建てた結果、甚大な被害が出てしまったと嘆いていました。」

 

今年で戦後75年。戦時中を知る人が少なくなる中、戦争の記憶をいかに次代につないでいくかも日本の課題。

 

当時戦地を経験した人は90歳以上になる。そうした人の話を聞くことができる機会はどんどん減っています。一方で、戦争について記した書物や出来事をまとめた年表などの資料は山のようにある。しかし、そうした活字で書かれた「歴史」を読んでいつも思うのは、それが真実だと思えないということ。どれも私が経験した戦争とはまるで違うのです。

 

どこが違うのか?

 

「例えば、戦前は日本中が暗いムードに包まれていたといわれますが、僕の記憶にある戦時中の日本はむしろ高揚感に満ちていました。大東亜共栄圏建設に向けて一丸となって進むことが正しい道だと多くの国民は信じさせられていたからです。5歳の頃、父に連れられて街に出たら歓喜に沸いた人々があちこちで万歳を連呼したりちょうちんを手に歌ったりしていた様子を鮮明に覚えています。日本軍の南京陥落の知らせに、興奮した人々が街に出て騒いでいたのです。しかしそうした雰囲気は、どの歴史書を読んでも描かれていない。

 

僕の記憶と、歴史として教えられる戦争が全く違うのは、その時代を生きていた個人の記憶や経験があまり語られていないからではないでしょうか。歴史とは本来、個人の経験や記憶が束ねられてできるものであるべきなのに、今語られている戦争の歴史のほとんどは、出来事を並べ、大局を説明するだけの年表にすぎない。日本社会にとって最も重要な戦争の記憶がきちんと相続されていないことを憂慮しています」

 

「今は新型コロナウイルスの感染拡大で社会全体が不安にさらされていますが、この問題が収束した後も、令和は困難な時代になるのではないかと予感しています。

戦後の日本は、生きていくのは大変だったけれど新しい時代をつくるエネルギーに満ちた明るい時代でした。平成には大きな震災がありましたが、国民が絶望することなく、基本的に穏やかに過ぎていった。しかし、令和になってにわかに、社会を揺るがすような出来事が相次いでいます。令和は激動の時代になるのではないでしょうか」

 

5~6年前に、『下山の思想』という本を書きました。登山で例えると、日本は高度成長期を経て経済大国への道をひた走っていた「登り」の時代を終えて、「下山の時代」に入ったのではないか、と指摘したのです。

 

「頂上をひたすら目指していた時は、見えなかった景色を楽しむ余裕が、下山の時代にはある」

 

 

「日本では「下りる」とか「下る」ということに負の感覚を持つ人が多いのですが、僕が言いたかったのは登山が良くて、下山が悪いということではありません。むしろ逆で、必死に頂上を目指している登山中とは違い、下山中は遠くの景色を見たり、高山植物を楽しんだりする余裕がある。登山中には味わえなかった充実感や喜びを得ることができるのです。

 

もちろん下山にもリスクがあるので、足元をしっかりと確認しながら、つまずかないように注意して、自分のペースで下りていくことが大切です。それができれば、いわば円熟した、豊穣(ほうじょう)なる下山をすることができる。今の日本に必要なのは、下山の思想で、成熟国としていかに実りある豊かな社会をつくるかという発想だと思います。

 

昔なら50代、今の時代でいえば70~80代ぐらいが下山の時代でしょうか。自分の来し方行く末をゆっくり考えたり、昔を懐かしんだりと回想することで、これまで親や先輩、友人から相続してきた多くのものに気付くことができる時期だと思います」

 

国の歴史にも人生の歴史にも登山の時代と下山の時代がある。下山の時代をマイナスに受け止める必要はない。きちんと下山を遂げる覚悟の中から、新しい展望が開ける。

 

「年を重ねても精神的な豊かさを持って生きるために、回想力はとても重要です。さらに言えば、回想するだけでなく、それを異なる世代に向けて積極的に語ってほしい。ただし、毎回同じ話ではだめです。昔話が単なる自慢や自己満足で終わらないよう、若い人が興味を持ってくれるように話を工夫すること。単なる自分語りではなく、その時の社会の状況が分かるような事実を生き生きと伝えることが大事です。記憶を語り継ぐには、語る側の努力が欠かせません。

 

今、自分の記憶を語り継ぐ相手がいる方はぜひ、自分の歩んできた道について、できるだけたくさん話をしてください。自分にとって大切な記憶や思い出を、次世代の人たちの心に届くように伝える。それが、こころの相続なのだと思います」

 

「心の相続」。深い言葉だ。